ASKA「しゃぼん」に向き合う。
ASKAさんの New album『Too many people』
iTunes などでの配信も始まり、10日にはついに台湾でもリリースされた。
より多くの人にこのアルバムが届くようになった状況に先行して、ASKAさんはYouTubeで2曲のMVを発表。
そのうちMV「と、いう話さ」は、隅々までカッコ良く、もう一回、もう一回だけと繰り返し観たくなるのだけど、
MV「しゃぼん」とは、一回一回が真剣勝負といった覚悟で、心静かに向き合いたい。
そう何度か観るうちに、突然今まで感じたことのない、いや感じたとしても突き詰めては考えないようにしていた感覚が襲ってきた。
自分の奥深くにしまい込んでいた闇が、ASKAさんの闇と溶け合い、光に照らされているような、
恐怖と安堵。
それが交互に、時には入り混じって、歌、映像と一体化する。
暗闇の中で口元を覆う手のアップ。
心の内を見られたくない、といった躊躇いを象徴しているようにも感じる、印象深い始まり。
それでも、と意を決するかのように手は離れ、顔のパーツ、パーツだけが最初はぼんやりと薄暗く、そして少しずつ明るさを増し、ついにはASKAさんの表情すべてが、強い光の下に現れる。
正面を見つめる眼差しは、ただただ、真っ直ぐだ。
その、フレームからもはみだす大胆で、気迫のこもった表現は、歌声、歌詞、メロディーと相まって、私の心の闇まで揺さぶってくる。
心の涙と重なって、ところどころぼやける映像。
苦しみ、悶えるASKAさんの心が、私の心の闇に触れる。
助けてくれ、許してくれ、と言いたくなるくらい苦しくなる。
アルバムがリリースされてすぐから、「しゃぼん」は大きな反響のあった歌だった。
「名曲」「涙が溢れる」「アルバムの中で一番好き」「胸が締めつけられる」
などなど、様々な表現で絶賛する声が聞こえていた。
そんな声に大きくうなずきつつも、そういう言葉だけでは表しきれない「何か」を感じて落ち着かない。
同時に、どこかでそれ以上探さないよう、向き合わないようにしていたところもあった。
その微妙な感情をどう表現していいのか分からないまま、アルバムを聴き続けていた。
毎回ラストの曲「しゃぼん」では、泣くこともできないほど圧倒される。
息苦しさにいたたまれず、出口を探すように「FUKUOKA」をもう一度聴く。
そうしなければ飲み込まれてしまいそうな、大きな感情の波。
「FUKUOKA」で癒され、凪が訪れる。
その優しさにホッとし、やっと涙が流れる。
そんな繰り返しだったため、なかなか単体では聴こうとは思えずにいた。
ところが、突然とも思えるタイミングの5月2日。
ASKAさんのブログを読み、今回のMV発表が「しゃぼん」だと知った。
思ってもみなかった意外性から、そう構えることなく YouTube のリンクをクリックしていた。
その頃の私は、ASKAさんの前向きな一歩一歩が嬉しく、ブログにアップされたASKAバンドとの笑顔の写真、次いで公開された「と、いう話さ」のMVでテンションの上がる日々。
その上がりっぱなしのテンションで、CDで聴く時でも、かなりな心構えを必要とした大曲「しゃぼん」のMV公開。
正直なところ、向き合えるような心の状態ではなかったのだ。
ASKAさんが、思うところあって公開を早め、
5回、やり直しました。 - aska_burnishstone’s diary
という、
MVに込めた、その本当の意図は分からない。
ただ、突然襲ってきた感覚から、
自分なりにやっと正面から「しゃぼん」に向き合えるようになってきたのだ、と気付かされる。
真っ暗闇の中でのASKAさんの心、そこで見つめた景色、手放さなかった希望、命への光。
ASKAさんの魂をそのままぶつけてくるかのような、歌声、その表現は、歌、MVという域を超え、こちらの魂に直接響いてくる。
寒くて寒くて震えながら、心が泣いている。力を振りしぼって、闇を振り払おうともがいている。臆病なばっかりのそんな自分の心までもが、容赦なく露わになっていく。
まるで、こんな寂しさの中にいるんだよ、とでも言うような表情で、曲の最後にはまた暗闇で立ち尽くすASKAさん。
「この寂しさはどこから来るんだろう」
底知れない寂しさ、儚さ、そして凄まじい生命への叫びが、ASKAさんのいっぱいの感性で、どこまでも美しく表現されている。
光の下、さらけ出された心の闇。
自分の中で、目を背けよう、蓋をしようとしていた闇すらも、「しゃぼん」と共に向き合える。
それは見たくないような自分も、ありのまま見つめて、受け入れるということ。
愛するということ。
それでも、
堂々と生きていこう。
まだまだ向き合い始めたばかりだけど、
そんな勇気が湧いてくる。