ASKAさんの本『700番 第二巻/第三巻』を読む前に考えたこと。

ASKAさんが3月17日に加筆修正し出版する本『700番 第一巻』は、2016年1月9日ブログという形で突然ネット上に発表され、即削除された。

 

そしてブログ削除からしばらくして、ASKAさんが精神病院に入院したという何とも悲しいニュースを聞いた。

 

それまでのメディアでも、ASKAさんは重度の覚醒剤による後遺症がある、精神状態はかなりヤバイといった報道だったが、強制入院という事実から、アーティストとしてだけではなく人間としても再起不能か、のような書かれ方となっていた。

 

実際のASKAさんがどういう状態なのか不安を抱えつつも分かる術もなかったのだけど、強制入院(医療保護入院)が本当なら、いずれにしても厳しい状況なのだろうと判断せざるを得なかった。

 

削除されたブログは読むのに数時間かかるほどのボリュームで、読み進めながら驚くほど、客観的な目線での状況描写が印象的だった。

 

このブログの明確な削除経緯は不明だが、

発表を反対した周囲の人たちは、ASKAさんのためを心から思っていた、ということは想像がつく。

 

それだけ、あけすけで、突っ込んだ内容となっていた。

 

ここまでの流れでは、ブログ内容、特に盗聴盗撮について書かれた部分は、ASKAさんが覚せい剤使用の後遺症による妄想、または精神的な病を抱えている可能性はある、と見られても仕方のない状況だった。

 

嘘や偏見だらけの報道ではなく、できるだけの直の情報は得たい、そう思ってしまう私にとっては、ASKAさんが書くASKAさんの真実というものに怯むことはない。

 

どんなに壮絶な経験でも、本人が伝えたい意志を持って書いたものは、感情移入するあまり例え苦しくなったとしても読みたい。

 

その上7月には、ASKAさん本人によるブログが始まったことで、ASKAさんの状況が分かってきた8月頃には、『700番 第一巻』の内容にも信憑性が出てきていた。

 

ただ、一般世間に向けて実はこういうことでした。

と報告し、納得、安心させられる内容なのか、ということになると、大いに疑問ではあった。

 

理解を示す人がいる一方で、ASKAさんがまたさらに、病んでいる、嘘をついている、という風に扱われる可能性も大きいと思った。

その方が「面白い」から。

 

2014年の逮捕の報道から、メディアはASKAさんを材料に創りたい放題ストーリーを膨らませてきた。警察発表ですら間違って伝わり、それがASKAさんの事実となって印象付けられてしまった。

 

覚せい剤を使用していたという重い事実。

 

それだけで、全てのメディアの嘘は許されるとでもいうように。

 

実際のところ、

 

言い訳はしなくてもいい。間違ったことを報道されていたとしても、関係ない。実際使用していたことに変わりはないのだから。反論、主張の前に、まず、ひたすら反省するべきだ。

こういった「黙して語らず」という美徳が日本人の心に根強くあるのが分かるから、

ブログを本にして出版したところで、内容を素直に冷静に受け止められてもらえるだけの土壌はないだろう。

 

今の段階で、世間的に、理解を求めることは難しい、それより、ミュージシャンASKAとして、音楽活動だけを地味でもひたむきに続ける方が伝わるのではないか。

 

理屈より、心に直接届く音楽の力。

 

誤解は解けないとしても仕方無い。

 

そう思うところがあった。

 

もちろん強制入院について書かれた二巻なども、私個人としては読んで、理解したいと思っていたが、

ASKAさんの問題はたくさんの複雑な背景があり、先入観、偏見をなくして読む人がたくさんいるとは考えにくかった。

 

一部の本当に知りたい、分かりたい人だけが読めばいいと。

 

ASKAさんが誰に何と言われようと、出版の意志は固いということも分かっていたが、

思いがけない再逮捕、不起訴処分により、なおさら説明が必要な状況になってしまった。

 

流れ。

 

意図していなかったとしても、流れは確実に本の出版の必要へと傾いていった。

 

ASKAさんの意志を後押しするかのように。

 

ファンではない人も、もう一度2014年の逮捕、それにまつわる諸々を思い出し、

何より提出されたお茶からなぜ覚せい剤の陽性反応が出たのか、という点には注目が集まった。

 

アルバム発売でネガティブなイメージを多少なりとも払拭できるだろう、というファンとしての目論見はあっさりと打ち砕かれ、

世間的には、ASKAさんはもしかしてまだ…、といったグレーのイメージが上塗りされたようだった。

せっかくの不起訴処分も尾を引く結果となり、復帰への風当たりを心配した。

 

 

敢えて言うと、

ASKAさんの書く真実はASKAさんの真実であって、もちろん事実も含まれているけれど、どんなに客観的に書いてあっても、一つ一つの事実には、関わったそれぞれの人の真実がまた別にあると思っている。

 

真実は一つというASKAさんの言葉と矛盾するようだけど、

それは言葉の定義が違うだけだ。

私は「事実」は一つでも、「真実」は主人公が誰かということで変わるという風に考えている。

 

その複数の真実を知ることで第3者は

やっと、一つの事実に近づくことができる。

 

恋人や友だちとの揉め事を思い浮かべると分かりやすい。現場にいなかった人には、二人の意見を聞かなければ、何が起こったのかを想像することは難しい。二人に話を聞いたところで、分かることは自分の経験や先入観からの想像でしかない。

同じように話を聞いても、違う解釈が生まれるのはそのためだ。

 

それを分かっているから、ASKAさんは自分に都合の悪い事も含め、客観的に描写することに努めている。

 

でも、関わった人たちのことはどこまで書ける?

 

誰も傷つけないように、

とはASKAさんが最も気を遣った点かもしれない。

 

誰もが一人で生きているわけでなく、人との関わりの中で原因が生まれたり、理由となることがある。

 

本当なら、誰も傷つけない描写はどうしても説得力に欠ける。

 

『700番 二巻/三巻』(一巻も含めて)の内容に、もやもやが残るとしたら、そういった理由からだ。

 

誰も傷つけないように、

その配慮が、ASKAさんの矛盾や嘘のように映るかもしれない。

 

これから吹く風も含めて、すべてを背負っていく覚悟の上で、本当の自分を知って欲しいと、

行動を起こすことで前に進むASKAさん。

 

弱い自分も、

不甲斐ない自分も、

 

堂々と隠すことなく。

 

それがASKAさんの行く道なのだろう。

 

音楽活動ができなくなるほどまでに追い詰められた背景と、

その背景にある社会的問題、

ASKAさんの創る音楽とのつながりの深さ。

 

10月7日

僕が、音楽活動をやるためには、避けてとおれないできごとなのです。

 ここは僕とみなさんの強い絆の場。 - aska_burnishstone’s diary

 

と、ASKAさんが言うように、

 

ASKAさんの通った道を知るため、

 

そして、

 

ASKAさんの音楽を聴くために、

 

『700番』を読もう。

 

 

 

ASKAさんの真実を理解するために。