ASKAさん、不起訴、釈放後の報道。

ASKAさんの逮捕に関する行き過ぎた、一方的な目線での報道は、例えASKAさんが有罪になったとしても許されるものではないほどの、メディアの暴挙だった。

それ故、ASKAさんの不起訴処分決定、釈放

の翌日である12月20日の報道には、どうしたって注目せずにはいられなかった。

前回アップした、警察の不手際、ずさんさを兵庫県警元警部補の飛松氏が糾弾したフジテレビ系「バイキング」、なんだかすっきりしない様子でASKA氏の行動は疑わしいという内容だった日本テレビ系「ミヤネ屋」に加え、他はどのような報道だったのか…。

 

事件の経緯、不起訴の理由、尿検査の方法、ASKAさんのブログ(時間帯によっては20日午後に追加されたものも含め)を、説明するのはどこも大体似たような流れ。

 

その中で

日本テレビ系「スッキリ!!」では、ウエンツさんが「単純にクロかどうかを判定するものではなく、シロの人をちゃんとシロというためにも(尿検査の過程は)徹底しないといけないこと」と被疑者となった人への配慮が感じられる発言があった。

差し替えの真偽の資料は残っていないので、お茶だったかどうかは分からないという意見が交わされた後、MCの加藤浩次さんが「今回不起訴ということで、ASKAさんが逮捕された時点で、逮捕が2度目ということもあり、さらに覚せい剤成分が当時尿から出てきたという警察発表があった。それで僕自身も起訴の方向になると思っていた部分があって、発言していたところがある。これに関しては僕自身もしっかり考えないといけないなと思った」

弁護士の菊池氏は、「私も尿鑑定で陽性反応が出たという段階で、それが唯一の最大の証拠なので、将来有罪判決が出るんだなと、私も考えてはいました。だけど色んな理由でこういうケースもあるんだということをふまえて、これからは考えてコメントしていきたい」と疑問は疑問として、自分たちの先走った見解にちゃんと言及するという、今後の放送に希望の持てる内容だったように思う。

 

テレビ朝日系「モーニングショー」では、家族、特に妻との関係が大事だとし、フリージャーナリスト青木氏が「薬物事件は周囲、家族からの支えは大切でしょうし、この間のASKAさんの言動を見ていると精神的に不安定な状態が続いているような気がしますので、周りでどうやってサポートしていくのか注目せざるを得ない」と言った後、「日本では起訴されると99,…%の有罪率、これ自体異常なんですが、それはともかくとして逮捕して起訴されないというケースは相当あるんです。ASKAさんの場合有名人なので、メディアも含めて逮捕時に騒ぎ過ぎてみんなびっくりしてるが、よくあることで、逆に言うと逮捕されたからといって犯人視して報道することへの問題点ていうのは、改めて僕らは考えなくてはならない」という至極当然であるべきはずのことを提起した。

続けて弁護士の菅野氏も「それはそうですね。今回の場合は、特殊なケースの嫌疑不十分、での不起訴じゃないかな」と発言した。

元薬物依存者で、ASKAさんが入院していた時期に一緒に入院していたということで、今回の逮捕の後、メディアで発言する回数の増えた石丸氏の「薬物の前科があると疑いをかけられることはあるが、捜査に協力したその結果が非常にあいまいな理由で逮捕されて、起訴にならない証拠にならないようなもので逮捕されていたんだということを知って大変びっくり、こんなことで逮捕されるんだという驚きですよね」というコメントも放送された。

青木氏が「捜査に間違いがあったという印象を防ぐために、嫌疑不十分ではなく起訴猶予にもっていこうとするのが普通なんですが」菅野氏「尿検査での疑惑は持たれないように手続きするので、今回はその点が珍しい」とした。

元警視庁刑事の吉川氏が「尿採取段階での問題」と指摘し、元厚生労働省 麻薬取締官の高濱氏も「手続きに厳密さが少し欠けていたんではないか」という見解を示した。

吉川氏は「気の緩みがあった」ということも付け加えた。

青木氏は「被疑者が否認している場合の十分な立証が検察には難しいと判断された」高濱氏「本人の尿であっても言い訳に対しての特定できないところがでてくるので検察はしぶった、通常釈放の場合昼過ぎか遅くとも2時くらいには釈放されるのに、夜に釈放なので、勾留満期ギリギリまで協議されてのことだと思う」などと、警察側に厳格さが足りなかったと、最初の段階がきちんとされていない段階で何も問えない。弁護士の菅野氏は「自分の罪を免れるための虚偽は罪に問われないし、(虚偽があったかどうか)それすらこの場合は立証できない」と明言していた。

 

ASKAさんのブログ更新前の放送なので、高濱氏は、おそらくASKAさんのでっち上げだろうということを前提に、だとしても証拠が厳格さに欠けるため、何の証明もできないというようにお話をされていた。

 

フジテレビ系「とくダネ」では、MC小倉智昭氏の「警察はホゾを噛んでいるでしょうね」という言葉から始まった。

元東京地検検事で弁護士の落合氏は「捜査の根幹に関わる確認ができていないので、採尿は制約のある自宅ではなく警察署で行うべきだったのでは」というコメントを寄せ、経済学者の安田氏が「何か違うことが(尿採取の経緯で)、起きたことは間違いないが、疑わしさは残っても不起訴になる事例で、そういう意味ではきちんと警察は機能している、今後の大きな教訓になったと思う」と発言。

中江有里さんは「捜査に協力しているといえると思う中で、ちょっと釈然としないものはある。ASKAさんにはまず身体を元に戻して、日常生活をしっかり送っていく中から活動が続けばいいなと思います」ということをまず話した。「何故自分の尿じゃなかったのか」「それには全て理由がありますということですが」「お茶を出したことで心証が悪くなる、疑念が残ったままにするのはどうしてなのか」といった疑問をそのまま残してただ感想を伝えあっているというだけであった。

 

ASKAさんのブログ更新後であるフジテレビ系「グッディ」では「バイキング」の坂上さんとのかけあいで、安藤さんは「こんなことがやはりあるんですね」と驚いたことを示し、「何度も考えたのですが、科捜研の結果(陽性)は間違いではない、自分はお茶を出した、じゃその間に何があるんだろうということを彼は示唆したいんじゃないだろうかという感じに受けたんですよ」

「常識的に考えると科捜研の結果は100%正しいと仰るんであれば、やはり尿検査は陽性だったことを認めるというふうに理解するんですが、お茶を入れたにも関わらず陽性が出たってことについて皆さんどう考えますか、ということをASKAさんは仰りたいんじゃないかと思うんですよね」と発言し、その他初動捜査がどのように行われていたのか、実際再現して検証していく内容だった。ASKAさんに疑問に答えてブログを更新してくれるよう、「バイキング」同様、テレビから呼びかけた。視聴者の疑問を一緒に考えるが、分からないところはまだあるといった、中立的な姿勢の報道になっていたように思う。

 

ASKAさんのブログ更新により、報道は「ミヤネ屋」を除いて、ASKAさんの心情、事情を考慮するものに多少は変化したように思う。

 

ただ翌日21日となると、

「バイキング」では、不起訴処分で釈放の謎に迫る!といった薄い内容のものだった。ASKAさんのブログの中から「尿を出してしまったら終わりだ。必ず陽性にされてしまう」という言葉を坂上さんは「事実をねじ曲げられてしまうという不信感が根深くあるのかなぁと思った」という風に問題点として取り上げたにも関わらず、元週刊文春の中村竜太郎氏の発言「警察での任意採尿に対してこういうことをすることは常識では考えられない」には、全く独自の切り口も見られず、最早薄ら寒いものしか感じない。元神奈川県警刑事で犯罪ジャーナリストの小川氏「誤認逮捕ならすぐに言うはずなのに、勾留延長が決まった10日後にやるのはやり口が一般的でない」「もし起訴されていれば懲役5年、そのリスクを背負ってまで勝負したい何かがあったのかとは思う」など、ASKAさんへの不信感だけで、誰も警察に対する不信感を表さなかった。

番組後半の「皆さんお忘れになっているけど、今回大前提として本人が錯乱気味になって自分から警察を呼んでいるわけですよ。内定捜査なしの転がり込んだ話だったので対応に乱れがあったのでは」という中村竜太郎氏の発言は、何を根拠に錯乱と言い切っているのかを、きちんと説明していただかないと全く説得力がない。ただの印象操作に過ぎない。

昨日の放送内容とは一転して、全体的にASKAさんの人間としての印象を悪くするような意図を感じる内容だった。

 

一方、

日本テレビ系「ミヤネ屋」は再度、釈放後のブログ全て表示し、前日「モーニングショー」にも出演していた元麻薬取締官の高濱良次氏に「陽性になったことには理由があって科捜研の陽性反応自体は間違いないということはどう思われますか」と説明を求めた。

しかし「お茶はありえない、スポイト、尿いずれかに覚せい剤が入っていても成分が変わってくるから、それは分かるはず」といったポイントがズレた答えしか返ってこなかったがもう一度質問し直すことなどはしなかった。

次に元検察で弁護士の亀井氏の、「このまま使用もしくは所持で起訴しても物証がなく立証できないので無罪」という見解を説明。

その後宮根氏は「科捜研の尿検査は絶対間違いはないんでしょうか」と専門家として高濱氏に問い、「鑑定者は公平な目で検査をするので間違いないと思います」という答えをもらった。

その流れで、

「ASKAさんが不起訴になってからずっと考えていたんですけど、ブログの中でお茶が入っていた、でも科捜研の陽性反応に間違いはないというASKAさんの真意は分からない。もう一つは警察が何故特定できなかったのか分からない。検査は適切に行われていたのか。高濱さんは完璧だとおっしゃいましたが、我々素人からすると、尿検査は本当に100%信頼に足るものなのかと感じたときに、我々伝える側は尿検査陽性でやっちゃったと思ってしまって、今回は伝えた訳ですけど、様々な疑問を提示された時にこれからのニュースの伝え方、報道の仕方をもう一度立ち戻って考えなければならないのではないかとちょっと思ったりもしたんですが」とここにきてやっと、当たり前に前提としていないといけない発言をした。

読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏は「それは疑わしきは罰せずで我々は疑われることを断定的に発言してはいけないということが一つありますね。二つ目は今回非常に素朴な質問として、最初に微量だったところで再採取何故しなかったのか」と何故か話題を変え、高濱氏の「色々な理由で微量にしかならない時もある」というまた答えになっていない答えを引き出した。

そこで宮根氏は再び「尿検査で陽性反応が出たらほぼほぼ間違いないと思うじゃないですか。絶対的な証拠だと思っていたものが、いろいろな要素で今回不起訴になったときに我々のニュースの報道の仕方は正しかったのかどうか、もう一度勉強して考えないといけないなと僕はちょっと反省しました。もし仮にASKAさんが無実なら謝んないといけないことだしこのあたりが分からないんですが…」と発言。

ちょっとどころか猛省しないといけないと思うのだが、繰り返すことでとにかくその点を強調したかったのだろう。

一方高濱氏は昨日の「モーニングショー」から一貫してASKAさんの陽性には違いないが、立証できないので不起訴なんだということを主張している。

その上でさらに宮根氏は「報道を伝える側として、絶対と言われる検査に対する信頼が前提にあって、こういう結果になることもあるとこれから考えさせていただきたい」としつこい程に繰り返し締めくくった。この日は宮根氏はこれだけを言いたかったかのような念の押しようだった。

 

 

 

報道の仕方如何によって、人の一生を狂わせる、イメージ操作の恐ろしさ。

そこを報道関係者には認識して報道していただきたい。

ASKAさんの件だけでなく、日に日に酷くなる一方の、メディアの暴動、それに対しての無責任さ。

まずは自らの報道姿勢に疑問を投げかけること、それを最初に行った加藤浩次さんは、以前の報道での決めつけを反省し、考え直すと話した。

その態度の好反応を追うように、20日ではまだ疑いの目を向けたままだった宮根誠司氏も、21日には態度を改めた。ネットで大きく叩かれていることを、危惧しての予防線だったのかもしれないが、どんな理由であれ、考え直すと示したことはやはり良いことです。ただ、宮根氏は反省の後、けじめをつけるところが数箇所あるように思います。

ご自身の判断で何らかの行動を起こすことを期待しています。

 

「警察の失態」のような自体になると、とりわけ弱腰になることは、今回の一連の報道で再確認できた。

そこを突けるのが、本来のマスコミのあり方だと思うが、警察と友好関係、協力関係を築いておかないと何かと都合が悪いのだろう。

 

そこは知らないふりをしてもいい。

ただ、そのために一人の人間を貶めたりする、陰湿な集団イジメは絶対に無視できない

 

尿のすり替え云々の前に、

問題をすり替えているのは

マスコミです。

 

もう話題はさり気なくすり替えられようとしている。

 

 

 20日のTwitterでは、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんが、

「ASKAさんが逮捕される時、マスコミ、一般人、乱痴気騒ぎ。に比べて不起訴の時の静まり方よ。不幸大好き一般社会、そこに媚びるメディア。報道が三流週刊誌みたいなことすんなよ。」

とつぶやいています。

 

まさにその通り。

 

 

また、ASKAさんはブログで自己発信するべきでない、という意見もASKAさんの周囲、コメンテーター、一般人らからの声で少なからずあるようだが、

前回逮捕時に自分の言葉で語ることのできなかったことによる、誤解やそこから生まれる鬱憤、そういうものを避けるために、よく熟考した上で発信していくことは大切だし必要だと思う

 

何も言えない立場になったASKAさんのメディアでの扱いは、あまりにも酷いのだから。

皆に好かれるのを目指しているわけではないだろうし、本来なら信頼を得られるはずの人からも誤解をうけてしまう、というのはつらいことだから。

 

今後はアーティストだけに限らず、活動、発言はどんどん個人単位になってもいいのではないかな。

 

群れとなった時の心理には、個人の時には考えられないものが働く時があり、極端な思想も生み出しかねない。

 

時には集団で、時には個人で。

広い視野を得るためには、誰かに決められた考え方をなぞっていてはいけないのだ。