ASKAさんのブログ『700番』週刊文春の章と今回の逮捕報道。

今もなお勾留中のASKAさん。

再逮捕されない限り、19日までには起訴か不起訴、処分保留が決まる。

起訴となれば、99,9%の確率で有罪が決まる日本の刑事事件。

執行猶予中の同罪での再犯なので、実刑は避けられない展開になるのだろう。

それゆえ、警察、検察には、執行猶予中だから、薬物事件だから再犯するに違いないという決めつけた捜査ではなく、真実を求めてどこまでも慎重であって欲しいと願う。

 

今ASKAさんの心境はどういったものなのだろう。

もともとは盗聴被害が最近またひどくなり、解決のためサイバー課を紹介してもらおう、警察に被害届を出そうとしたことがきっかけだ。警察にかかってきた電話での言動が意味不明として、盗聴などを扱う刑事ではなく、もしくは共にか麻薬担当刑事が家に来た。家では盗聴器は見つからなかった。そこで任意で尿検査を求められ、最初は断ったが説得されたのか、思い直したのか、どうせ陽性になることなんか100%ないんだからということで応じた。簡易検査では陰性だったものの、科捜研で調べ直したら、アンフェタミンの成分が検出された。その段階からテレビでの報道が始まり、ASKAさんのブログ更新、逮捕、送検、そして勾留…。

ASKAさんは一貫して否認を続けているという。

 

ASKAさんのブログ、宮根氏との電話、逮捕当日の警視庁記者クラブからの報道を合わせるとこういうことなのかな、と今は理解している。

 

ASKAさんが勾留中で何も発信できない、その状況をいいことに、それぞれのメディアが好き勝手に報道し、行き過ぎと言えるほどまで話題を膨らませていることへの指摘は、逮捕後のエントリーにも書いてきた。

 

そこで改めて今年1月に削除されたASKAさんの『700番』(ネット上でも閲覧可能)を読み返してみる。

 

このブログの発表には周囲の強い反対もあり、投稿後すぐに何者かに削除されたとしている。

内容はなかなかヘビーで、読み解くにはいろいろと付随して知らなくてはいけないことも出てくる。読み飛ばしたりする訳にいかない奥深いものだ。ただ例えそういう知識がなかったとしても、事件を赤裸々に真っ直ぐ伝えようとする姿勢はとてもよく伝わってくると思う。

 

一章ずつ想うことはあるが、それは次の機会にして、今日は「週刊文春」の章に注目してみる。ASKAさんの件だけに限らず、今も再び似た事が起こっていて、そして変わりのないマスコミの姿勢がよく分かる。

 

もちろん、この当時はASKAさんは覚せい剤を使用していて、それをなんとか必死に隠そうとする心の動きも描写されている。そのやましさと戦いつつも、文春記者、(今ではASKAさんの記事をきっかけとしてかテレビにも出るようになり「スクープ!」という取材現場の様子を書いた本も出すほどの) 中村竜太郎氏と直接対話をしている。ASKAさんとしては、同じテーマで書くにしても人格を大きく歪められ間違いだらけの情報を伝えられるのは耐えられなかったのだろう。活字になった途端、それは事実だと人々に認識される。ASKAさんは中村氏から謝罪を受けて、これ以上責めるのはやめようと思ったというが、どうやら甘い認識だったようだ。

 

謝罪を受けたとはいえ、それはまったく表面上だけのお愛想だったことは、今回の報道でもその当時のデタラメ記事を元に話題が取り上げられ、繰り返されていることからも明らかだ。

 

 ASKAさんの覚せい剤使用に確信を持っている。それが大義名分となって、人道的感覚などはとっくの昔に捨て去ったらしい中村氏は、誰にも言わないという約束をすぐに破って対話の内容をキャップに話したらしい。

 

今回でいうと尿検査の陽性結果、前回の有罪判決がその大義名分なのだろう。テレビや雑誌では常識を疑う報道が続いている。

 

ASKAさんが中村氏と2度目に会った時も、渡邉氏立会いのもと、取材ではないとの前置きをしっかり強調したにも関わらず、文春は隠し録音した会話、友人ミュージシャンと共作したデモ段階の楽曲をもフルサイズで文春有料会員にWeb上で公開した。ASKAさんは「これは極めて悪質な著作権侵害で、完全な違法行為である」と、この行為を厳しく批判しているが、当然のことである。

 

覚せい剤吸引のビデオが存在しそれによってゆすられているという事実、これだけでも十分に衝撃的だ。

しかし、週刊誌の記者を始めワイドショーなどのマスコミは、衝撃的な内容をさらに妄想で膨らまして、よりエンタメ要素の強いものへと脚色する。

罪を犯している方が悪い。

読者、視聴者が求めている。

その言い分でもって、どこまで悪ノリし続けるのだろう。

 

今回も井上公造氏が、去年の12月にASKAさんから送られてきたというデモ音源を、何の罪悪感を感じている様子もなく、テレビで公開していた。

ASKAさんが直後の電話で「曲流しちゃダメだって」と抗議するも、井上氏は「あれは逆に聴かせた方がいいかなと思ったんですよ」という的外れな答えでごまかした様子も、何故か放送された。これに対して視聴者が「井上さんは正しい」と反応するとでも思ったのだろうか。「著作権侵害なのでは?」「非常識だ」という声がほとんどの中、思いがけずASKAさんの未発表曲のデモを聴くことになった視聴者からは「完成形を聴きたい」「いい曲だった」という感想までがネット上では見られた。

 

今回の逮捕に関しては、ASKAさんはブログ内ですぐに「ありえないこと」と主張した。

 

陽性は、ありません。 - aska_burnishstone’s diary

 

宮根氏、井上氏との電話も放送の承諾はなかったかもしれないし、一部カットされているのかもしれないが、ASKAさんの肉声で事情を少し聞くことができた。

フジテレビが、ASKAさんの乗ったタクシーを9時間半にもわたって使い続けることで拘束し、映像提供してもらうことにこぎつけたことで、逮捕直前のタクシー内での映像が各局で放送されることとなった。

任意同行時、約6時間も前から情報が大きく報道されていたので、多数の報道陣がASKAさんの姿を映した。その中にはASKAさんの「やっていません」「間違いです」という声も聞きとれた。

 

皮肉にもこの行き過ぎた報道で「ASKAさんは本当にやっていないのではないか?」という声も増えている。映像や音声を客観的に見ると、テレビの演出が偏っていることに気付く人もいる。だがそういう声は多くともほとんど伝えられることはない。そしてまたメディアに対する不信感は増していく…。

 

前回逮捕時のASKAさんに関する報道をASKAさん側からはどう見ているのか、ということで『700番』の「週刊文春」の章はとても興味深いものだった。

 

そして今回の逮捕とその報道の仕方に強く疑問を感じて改めてこの章を読むと、報道のあり方を自問自答しているメディアは本当に存在するのだろうかと思う。

 

 

以前、東スポが芸能リポーターの故梨本勝氏の書いた記事で名誉毀損で訴えられた裁判で、一審の裁判では「東スポの書くことを信じる人はいないのだから、名誉毀損にあたらない(意訳)」とした判決を下されたことを思い出す。

二審では「報道機関自ら記事を信用する人はいないと主張することには矛盾がある(意訳)」とし結局は東スポが敗訴したのだが、あまりに公正さに欠け、受け取る側の利益や疑問は一切追及せず、自分たちが作り上げたシナリオのみを押し付けてくるような報道が続くのなら、この時の東スポのようにマスコミ全体が「信用されていないのは誰もが認めるところ」といったものに成り下がるだろう。

 

話を盛るのは当事者に迷惑のかからない程度にして、まずは事実を伝える。

その上で根拠のある推測や仮定を出処をはっきりさせ、事実ではないことを明確にした上で披露するのことが「公共性」「公益性」に繋がる姿勢のように思う。

そして時には警察や政治の矛盾点も指摘できるのが、マスコミの役割なのではないだろうか。

 

 

例え罪を犯しているとしても、その人が人として更生もできないほどまでに弄び、叩き潰すような報道は、その情報入手の方法も含めて、決して許されるものではない。

また社会はそれを受け入れてはいけないと思う。