これはちょっと…、ASKAさんの人権侵害なのでは…。

「間違いです」「やっていません」

 

自宅前を取り囲む報道陣に答える、

ASKAさんの声が耳に残って離れない。

 

共同通信社の警視庁組織犯罪対策5課 への取材によると、11月29日の時点でASKAさんは、

覚せい剤は前回の逮捕以降、見てもいないし使用もしていない、と供述しているそうだ。

 

ASKAさんは自身のブログでも、

100%ありません。

 陽性は、ありません。 - aska_burnishstone’s diary

と、断言している。

 

それにしてもこの逮捕劇と呼ぶにふさわしい、マスコミの大騒ぎぶりはどうしたことなのだろう。

待っていましたと言わんばかりに、興奮した様子で自宅前に群がるマスコミ関係者。

自宅前で連行されることになると、さらなる混乱を引き起こすかもしれないと判断してなのか、その他の用事があったのかは分からない。とにかくASKAさんが自宅から車で外出しようとするも、ガレージの扉が開いた途端、多数のカメラにリポーターが押し寄せた。その際、ASKAさんの車のエンブレムが破損するという事態にまでなった。

ASKAさんは出頭しようにも、既に身動きのとれる状態ではなくなってしまっていた。

この状況を治めることすらできない、現場の交通整理においては、強制力を感じないほんの形だけのものであったのだろう。

押しあいへしあいの中撮られる映像は、車のナンバーまでそのままに、さも緊迫感があるかのようにテレビに流された。

 

警察は何故このようなマスコミの動きが充分予想される中で、逮捕状取得前の情報を流したのだろう。

一社だけが、すっぱ抜いたのではないのだ。漏れるにしてはあまりにも大々的だが、マスコミのモラルとして、例え情報をつかんだのだとしても、逮捕状請求段階で報道することはいかがなものか。

大多数の国民の利益に関わる緊急事態ではないのだ。

 

「被疑者」という大義名分を翳して、配慮に欠ける報道に強い憤りを感じる。

28日の日本テレビ系「ミヤネ屋」では井上公造氏がASKAさんの未発表音源(しかも昨年末のもの)、を無断で流し「いつものASKAさんの曲調と違う」「幻想的な」などと、覚せい剤使用に関連付けるような会話を宮根誠司氏と交わし、

29日のテレビ朝日系「ワイド!スクランブル」においては、ASKAさんが乗ったタクシーのドライブレコーダーを入手し、タクシー内部の映像、音声を公開するという、耳を疑う、目を疑う、考えられない報道の仕方だ。

 

採取されたASKAさんの尿からは覚せい剤成分が検出された。

ASKAさんは事実に反すると否認している。

ASKAさんの自宅からは覚せい剤関連のものは押収されていない。

 

この3つが現時点(11月29日)での事実なのではないか。

 

この事実から勝手に膨らませた憶測で、ASKAさんをまるで極悪人、重症な薬物依存者のように取り扱うのを観ると、

この報道の仕方はちょっと違うんじゃないか…。

という思いを抱く。

 

例え覚せい剤使用の疑いによる被疑者でも、ASKAさんには人権が保証されていなければならない。有名人であることを差し引いても、この報道熱はどうにもやり過ぎな感じが否めない。しかも、今の段階では否認していて、起訴、裁判もまだなのだ。その後の捜索の行方、検察官、裁判官の心証にまで影響しかねない。

メディアは事実だけを淡々と伝えればよいものを、自分たちの描いたストーリーにいくつかの事実を都合よく挟み、さもそれが真実であるかのような印象を与える。

 

おそらく何の強力なバックもついていないであろう無防備なASKAさんを、こっちもつついてやろうか、あっちもつついてやろうかと攻撃する集団イジメのような構図。

ASKAさんやASKAさんの家族の人権はお構いなしだ。

事件の重要度からではなく、取り扱いやすさを重視した、モラルもプライドもない偏ったマスコミの姿勢が、さらに浮き彫りになったように思う。視聴者の意識、思想を自由に操っているような感覚にでも陥っているのだろうか。

 

覚せい剤は非常に危険で恐ろしい薬、ということをアピールする方法なら、他にもあるだろう。

 

一旦活字や映像になると、事実のように認識してしまう。覚せい剤からの脱却が非常に難しいことも理解の助けとなって、真実はねじ曲げられる可能性がある。

 

これらことを、しっかり認識した上でメディアの情報は受け取らなければならない。

 

 

ASKAさんはじめ、ご家族、Chageさん、関係者の方々の心労は相当なものだろう。

私たちの野次馬根性的な下卑た好奇心は、そんな彼らの負担を増やすことにもなる。

 

冷静に物事を見極めようとすること、メディアリテラシーを持つことを、常に意識していきたい。

 

 

 私たちが今できる、せめてものことだと思う。